核エネルギーは決して人間が利用することも制御することもできないという見方は、福島の原発事故を事実に即して具体的に検討してみれば、明らかとなるであろう。
非常用のディーゼル発電機が、津波が来ればたちまち機能不全に陥るような「タービン建屋」に無防備に設置されていたのであり、原子炉建屋に設置されていたら電源の全体が失われることはなかったと言われている。また、女川の原発は海抜15mのところに非常用電源が設置されており、未然にメルトダウンを防ぐことができたのである。
このことをみても今回の福島の原発事故は、単に冷却装置を動かす電源が失われていたからであり、水素爆発を防ぐための備えがほとんどなされていなかったにすぎないという事になるのではないだろうか。
 村上春樹は最後に言う「我々は力強い足取りで前に進んでいく「非現実的な夢想家」でなくてはならないのです。人はいつか死んで、消えていきます。しかしhumanityは残ります。それはいつまでも受け継がれていくものです。我々はまず、その力を信じるものでなくてはなりません。」(村上春樹のスピーチ)
自らを「非現実的な夢想家」として名乗っているが、労働と生活の実態の基盤が弱い文学者村上春樹にとって、現実を回避して観念と夢想の中に迷い込むのであろうか。
村上春樹にとっての問題意識は、核兵器について言われたような「全人類的な」課題、ヒューマニティの問題として現れるのである。
しかし、原発の事故を具体的に検証していく中で、その課題は明らかになってきているのであり、なにか、たいそれた抽象的なヒューマニティの問題でないことは自ずとわかるのではないだろうか。
世界的に脚光をあびている作家村上春樹は文学という一つの芸術の分野の立場にたって発言しているのだが、その抽象的な論理には、なにか文学の限界のようなものを感じてしまうのである。